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埼玉県 深谷市・松久町 
山崎山117m~諏訪山113m

 諏訪山の頂上にある河輪神社
  

【日付】2021年03月11日(木曜日)
【メンバー】 礒田武志: 1名 コロナ第2回緊急事態宣言のもと新座市の累積感染者数627人につき 
【行動日程】      
【交通】
(往 路)北朝霞10:04-10:14南浦和10:17-10:19浦和10:38-11:34岡部  
(復 路)松久14:34-14:43寄居15:05-15:21小川町15:22-16:09志木
【コースタイム】 
岡部駅11:15~12:35山崎山(岡部チサンCC岡部コース入口)~13:23諏訪山~14:14松久駅
[歩行実時間(休憩を含む)]  2時間59分
【コメント】
1. 動機・目的・目標  
・動機・目的 コロナ禍の中、コロナ太りし、筋力が衰えたので回復しなければと思っていた。昨年初夏に久曾神さんから「埼玉の山に登っていますか?」との指摘とともに「日本山名総覧18000の山((武内正 白山書房 1999初版) 国土地理院発行の2.5万分図に記載されている全ての山16667山、過去に2.5万分図に記載されていたが山名が削除された山31山、その他の山1334山で、全収録山数は18032山)」にのせられている埼玉の山201の紹介を受けた。そのなかの未踏・未記録の山に登ることとした。

昨年に東上線沿線の山を、今年は西武秩父線沿線の山を登り終えたので、北武蔵台地を次の候補に選んだ。北武蔵台地の松久丘陵にある残丘である山崎山と諏訪山をまずは目指すことにする。なお昭文社の「山と高原地図1998年版」や山と渓谷社の「分県登山ガイド10埼玉県の山1996年初版3刷」に北武蔵台地の山崎山、諏訪山、大久保山(浅見山)、御嶽山(みたけやま)の記載はなかった。

・目標 インターネットで調べてみると、山崎山は岡部チサンCC岡部コースの中にある。立ち入り禁止であるらしい。昨年の大立山(オオムラサキG)と同じようにゴルフ場入口に立てれば山頂を踏んだと妥協することとする。諏訪山も岡部チサンCC美里コースに接しているが河輪神社の境内にあり山頂に立つことができるという。関集落にある浅間神社から岡部チサンCC美里コースの中を通って河輪神社に縦走した記録もあった。縦走したいが立ち入り禁止になっていたら元も子もない。安全策として高崎線岡部駅から一般道を歩いて岡部チサンCC岡部コースの入り口を経て諏訪山の河輪神社に参詣し、八高線の松久駅まで歩くこととした。

2. 天気・気温・体調・装備
2.1. 天気・気温
11日の日本付近は高気圧に広く覆われ、日中は全国的に晴、最高気温は平年より高く、関東から西では4月並みの暖かさとなる所が多くなるという。美里町の予報は「朝は最低-1℃と冷えて冬日であるものの晴れるので最高16℃、12-18時は晴、12℃、降水確率0%、雨量0㎜、湿度30%、風 東南東1m/s」と絶好のお散歩日和とのであった

2.2. 体調
いつもようにまずは志木駅から北朝霞駅まで歩いてどこか悪いところはないかとセルフチェックした。不調の兆しはない。岡部駅出発時に杉花粉のせいでくしゃみと鼻水が出たが田園を歩くにつれ二つとも治まった。なお新規コロナウイルスで2回目の緊急事態宣言中であったので私も駅構内や電車内では不織布マスクをかけた。

2.3. 装備
一般的ハイキング装備で十二分である。

3. コース
3.1. 見どころ
・風景 岡部駅を一歩出て南進すると春耕が始まった関東平野で農業関連集落が広がる。その中を高速道路、新幹線や在来鉄道線が北上し、道路が網目に、ゴルフ場となっている松久丘陵の残丘が緑の島模様を織りなしている。同じ武蔵と言っても野火止台地である平林寺周辺の雑木林が続く様子との違いを認めた。
・展望 広い関東平野を北西から北東へ取り巻く山々を遠望できる。近視・乱視・老眼・白内障+春霞ではっきりは見せてくれなかったが・・・
・三角点 歩いたコースに三角点がない模様
・信心 富士信仰の浅間神社、諏訪神を招致した河輪神社がある。
・歴史的建造物 山崎山と諏訪山には古墳群、長坂聖天塚古墳はその一つ 
・自然 山崎山と諏訪山は上武山地から関東平野に張り出す北武蔵台地の松久丘陵にある残丘である。森と小川で囲まれている
・動物 藤治川、志戸川や天神川ではカワセミ、ダイサギ、アオサギ、ノスリ等の他に逃げていく小鳥に出会った。ゴルフ場外縁の林からキツツキのドラミングやカケスの警戒声などが聞こえ、梢の上をカラスが鬼ごっこをしていた。このように鳥類が豊富であるのに驚く。藤治川の土手の竹薮に籠罠と自動カメラが設置されていた。小獣がいるものと思われる。水鳥が多いのに川に泳ぐ小魚が見えない。天神川で真鯉を見たのが唯一であった。畦道、土手、森の中の徒歩道などにはキタテハ等の越冬蝶が道を教えてくれ、羽化した白蝶、黄蝶も舞っていた。
・植物 志戸川や天神川の土手・堤にはヒガンバナが延々と植えられていた。岡部駅の近くにはコスモス街道があるという。このコースのハイライトは秋の彼岸の頃からであろう。今は畑を耕し始める時期だ。畑にはほとんど作物が見られない。わずかに岡部駅近くで長葱の行列をみた。深谷葱になるのか。

3.2. 安全・ハザード
3.2.1 道迷い
岡部チサンCC岡部コース取り付き道路と県道の変則交差点で北西へ右折するところを南東に左折してしまった。岡部チサンCC岡部コース看板を写真撮影するために一回りして、背中に回った取り付き道路とその隣の車道を感覚的に右に取り違えて進んだらしい。岡部チサンCC美里コース取り付き道路を右手に見つけて地図読み、磁石合わせをして気が付いた。もちろん引き返したが里歩きでもぼんやり、注意散漫は厳禁である。行動がイリュージョンを呼ぶ。

3.2.2. 寒さ
彼岸桜が満開で風も弱く、陽射しが強いと感じるほどの春日和であった

4. 歩いてみての感想
・目的である山崎山(岡部チサンCC岡部コース入口)と諏訪山を踏破できたのは嬉しい。これで埼玉の山201も残りが41になった。コロナ太り解消、脚力回復にはなりそうもなかったが・・・
・目標とした岡部駅から山崎山(岡部チサンCC岡部コース入口)と諏訪山を経て松久駅までコースを歩くことができた。土手道を見つけたのは望外の喜びだ
・岡部駅から山崎山(岡部チサンCC岡部コース入口)と諏訪山を経て松久駅まではできるだけ藤治川と天神川の土手を歩いたほうが自然を満喫できて楽しい。諏訪山は麓の鳥居から緩やかな階段道を標高差で約50m登るだけで済む。コロナ太り解消や脚力回復には役立たないが、田園を遠足した小学生の頃の気分で歩けた
・岡部駅前の看板に記されていた岡部六弥太、浅間神社の麓にあった川勾(かわわ)氏の説明、また河輪集落のことなど、この地区は源平時代から南北朝時代に活躍した武蔵七党のうち猪俣党に縁がある。亡くなられた岡部平八郎先生は桐生の出身であったがご子孫だったのであろうか。中世に関連ある施設・遺跡探訪が趣味の方に聞いてみたい。
・浅間神社と河輪神社も由緒書きの最後に「雨乞いがご利益」とあった。北武蔵台地の松久丘陵の麓で藤治川、志戸川、天神川などの細流と雨だけが頼りでは穀物農業には厳しい環境だったに違いない。
・古墳群 深谷市から美里町へかけて多数の古墳がある。古墳密集地と言われているらしい。行田市のさきたま古墳群しか知らなかったので長坂聖天塚古墳に立っていた解説を読んで驚いた。古代についても勉強する必要があると感じた
・渋沢栄一 岡部駅、松久駅でも渋沢栄一翁とNHKの新大河ドラマ「青天を衝け」のポスターがあった。深谷地区出身の偉人だから、皆様の誇りなのであろう。
(記:礒田武志)

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(写真 礒田武志)
 
5. 記録
5.1. 岡部駅から岡部チサンCC岡部コース入口(山崎山)
岡部駅出口を出て近くに南側に渡る踏切か陸橋がないか探す。深谷側の陸橋が最も近いと判断してそちらに向かう。大看板の地図と岡部六弥太紹介が欅の古木前に立っていた。一読して陸橋の階段を登る。上から女性が降りて来た。高崎線の上から岡部駅前を見渡し、希望ヶ丘公園の脇を歩み南入口から満開の彼岸桜を鑑賞した。春霞とはいえ青空を背にするピンクの桜は美しい。枝にはヒヨドリやメジロが蜜を求めて集まって来ていた。県道353号に合流し歩道を南へ歩む。西に日立化成の白い大きな建物が見える。合同庁舎(深谷市役所岡部庁舎など)前を通って信号交差点を西へ曲がる。畑と家屋が交互するようになった。畑の畝に青葱が並んでいた。本場の深谷葱なのだろう。川から飛び出したノスリが送電線鉄塔へ去っていった。細い川だが土手の上は自動車も通らず暖かな日差しと清流を満喫できる。少しい早いが土手に腰を下ろして昼食とした。
食後、ズボンの埃を払い、ザックを背負って田舎道を西へ向かう。軽トラから耕運機を下ろして畑に向かう方とすれ違う。三叉路で県道へ左折して南に向かう。目の前が新幹線下のガードだ。新幹線の下を潜るとその先の県道には歩道がない。前後から疾走する車に脅されながら道路外の畦を進む。畔もなくなり無歩道の車道は恐ろしいので道脇の薮の踏み跡に入ることとした。竹・笹薮の先は藤治川に沿った草道となっており薮の端には小獣捕獲用籠罠と自動カメラが設置されていた。藤治川の土手を歩き続けることができそうだ。カワセミが岸の小枝から飛び立って上流へ、鶺鴒は私にお構いなしに餌を探していた。目の先から飛び出したキタテハが少し先に舞い降りた。土手道が橋の前で駐車場の周りを囲む植え込みの中に入ってしまった。橋の右には大きな建築物がある。植え込みから駐車場に出て県道へ回る。すぐに土手に入り市道に架かる橋まで歩んだ。橋を山側(ゴルフ場側)へ渡って南西に進む。道路の右の山側には大きな平屋建ての「ふきのとう保育園」があり幼児の声が響いていた。左手には小型トラックなど建設業の方の車が多数とまっており、山側に建物を新築中であった。交通整理の方に会釈して進むと廃屋があり背後の放棄梅畑の奥からキツツキのドラミングが響いてきた。視界が開けると道路下にはホトケノザがピンクに染めなした広い畑があり、その先は地平線まで関東平野が広がっていた。三叉路を西へ曲がり、坂道を登る。右手にネットフェンスで囲まれた溜池があり雌のジョウビタキが池の向こうに逃げて行った。池と民家との間にある畑の先が山崎山ではないのだろうか。地形図と照合する。坂道はゴルフ場の境に突き当たり道なりに西へ曲がる。道は軽く下り、右手に岡部チサンCC岡部コース入口が出てきた。「私有地につき立ち入り禁止」と書いた立て札が並木道にある。山崎山はこの中なのだ。

5.2. 岡部チサンCC岡部コース入口から諏訪山まで
岡部チサンCC岡部コース入口から道なりに西へ進む。三叉路を2つ過ぎると県道75線に突き当たる。大きなモニュメント風の岡部チサンCCの看板が三叉路にある。撮影するために一回りした。カメラをしまって右へ向かう。左右に岡部チサンCC美里コース関連の看板が立ち、太陽の向きがおかしい。磁石で道路の向きをたしかめた。間違えて南東へ来たと分かったので引き返す。ふたたび岡部チサンCCの看板モニュメントの前に立って今度は県道75線を右手(北西)へ向かい美里町に入る。次の信号で左折(南西へ)して道の北側に設けられた土地整理記念碑を横目に見る。山の北裾に着いた道を歩む。山側に小規模の墓地が短い距離の間に4か所もある。浅間神社の鳥居近くに着いた。自転車が1台止めてある。近寄って浅間神社由緒を読む。浅間神社は南東の山の上、地形図ではR75の岡部チサンCC美里コース入口から参拝することもできるが、NETではこの鳥居から神社に登って諏訪山へ岡部チサンCC美里コースの外縁を歩いた記録もあった。鳥居から北西方向を見ると浅間山がうっすら見えた。由緒書には富士の浅間神(此花咲耶姫命}を祭ったとある。岡部チサンCCに入らぬよう鳥居から高圧送電線鉄塔順で位置を確認しつつ一般道を歩む。前山集落の三叉路を細い方の道へ南西にとる。長坂聖天塚古墳の碑が左肩上にあった。登って説明を読むと鉄器や銅鏡が出土した地域で重要な古墳であると記してある。また山崎山と諏訪山にはその名をつけた古墳群があるとのことだ。通り過ぎた墓地は子孫の方々が守られているのかもしれない。ようやく左手に鳥居、右手に高圧送電線鉄塔が目に入った。浅間神社入口で見た自転車がここにある。鳥居に下がる注連縄を潜って参拝のための階段道を登る。杉林林床のヒサカキが香る。カケスがうるさい。階段を登り詰めると真っ赤な社殿があり河輪神社と扁額に書いてあった。

5.3. 諏訪山から松久駅まで 
河輪神社由緒を読んだ後、最高点と思われる三社遥拝所に進む。登り口と上の遥拝所に石碑が立ち、登りの道も複数ある。稲荷、天満そして三笠と神社名が刻んである。遥拝所の社側の碑には三笠でなくて三和となっている。三笠なら熊野神社系、三和なら大和三輪神社系と違いがあるはずだが思う。遥拝所から社へ下り脇社などを巡る。五つの石祠の向こう(南東)には岡部チサンCC美里コースの芝生とプレーしている方たちの姿が見えた。石祠の右手にはコースを見つめる男性がいた。この人が自転車の持ち主だろう。諏訪山の西から南西は太陽電池発電所になっていてネットフェンスがある。南への踏み跡でもあるかと探してみたが薮になっている。登ってきた階段へ引き返すことにした。階段を下り入口の鳥居について明るい畑地を見る。諏訪山沿いに農道を歩むとノハラツグミが逃げて行った。細い農道から右折して広い農道に入ると正面に高速道下のトンネルが見えた、諏訪山を振り返り残丘を写真と記憶に残した。農道を西に進み高速道の下をくぐる。天神川に架かる橋の上から、車が疾走している県道と松久駅近くまで続く人気のない土手を眺めてどちらを選ぼうかと思案した。土手の上に轍跡が続いているので天神川左岸を行けるところまで歩くことにした。土手を歩き始めると天神川からダイサギとアオサギが飛び立った。流れに魚の姿は見えない。何を食べているのか心配になる。地形図によると松久駅まで天神川に架かる橋を4つ、合流地点が1つある。これらを確認に使えば現在地もわかると春の土手を漫歩した。畜産臭が強くなり豚舎らしい建物を見る。橋を東から西へ渡るトラックが解放型荷台に屎尿を積んで農道を走り去った。ここまで魚の姿がなかった川に真鯉が波を立てて下って行く。ヒガンバナの株が行列する土手で孫娘連れの夫婦と出会う。孫娘は真新しい自転車を土手に倒して祖父母を待っている。橋の袂の草地にはオオイヌノフグリが青花を散りばめるだけでなく開花したスミレもあった。今度は高齢婦人の二人連れと出会う。土手は地元の方々の散歩道のようだ。4番目の橋を渡って県道につながる一般道へ右折した。動物病院を正面に見て三叉路を西へ曲がって県道に、県道を横断して南へ歩むと「遺跡の森公園入口」道標がある。その先直ぐが八高線踏切になり、越して右折するとメルヘンチックな松久駅が目に入った。

6.覚え書
6.1. 美里町周辺の丘陵には、多数の古墳が見られる。山崎山丘陵の西部には諏訪山古墳群があり、長坂聖天塚古墳はその一つである。中略。副葬品はこの古墳の被葬者が志戸川流域を支配した権力者であったことを推定させる。

6.2.武蔵七党 Wik引用
『武蔵七党系図』(南北朝頃成立):横山党、猪俣党、野与党、村山党、西党(西野党)、児玉党、丹党(丹治党)
『書言字考節用集』(1717年刊):横山党、猪俣党、村山党、西党(西野党)、児玉党、丹党(丹治党)、私市党
『武家職号』:横山党、猪俣党、西党(西野党)、児玉党、丹党(丹治党)、綴党、私市党
上記の三説の異同を整理すると横山党(八王子市)、猪俣党(児玉郡美里町)、児玉党(本庄市児玉郡)、村山党(多摩郡村山郷)、野与党(加須市野与庄)、丹党(丹治党)(入間郡・秩父郡・児玉郡)、西党(西野党)(日野市)、綴党(横浜市都筑区)、私市党(加須市騎西)となり、全部で九党あることがわかる。七党という表現は鎌倉時代末期に成立した『吾妻鏡』にはないことから南北朝時代以降の呼び方と考えられている。(ウイキペディア)

片山(かたやま)氏: 埼玉県新座市片山をルーツとする児玉党のメンバー。

岡部六弥太
岡部六弥太忠澄 岡部氏は、武蔵七党猪俣党出身の猪俣六太夫忠綱が、岡部に居住して岡部を称したのが始まりと伝わる。六弥太は、忠綱の孫で、武勇に優れ、保元・平治の乱、木曽義仲の追討で戦功を上げた。一の谷の合戦で平家の名将「平忠度」を討ち取ったことで一躍有名となり、『平家物語』にもその場面が描かれている。忠綱の菩提を弔うため、領地内で一番見晴らしの良い清心寺に、供養塔を建てるなど、情け深い人物でもあった。建久8年(1197)7月25日に亡くなり、自らが創建した普済寺の北方に葬られたと伝わる。岡部市内に墓所が保存されている。

6.3. 浅間神社の鎮座する川輪は、山崎山丘陵から広がる農村地帯で大字関の小字である。川輪は武蔵七党猪俣党川勾(かわわ)氏の本貫地であるとも言われている。江戸時代は旗本安藤氏に知行地であった。中略。川輪の住民は、大字関の鎮守児玉神社の氏子であるとともに、字川輪の鎮守浅間神社の氏子でもある。中略。江戸時代からの富士浅間信仰に基づき云々
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6.4.河輪神社
河輪神社は『三代実記』に記載されている「河曲神社」と想定され、中略。河勾氏の本貫地として、中略。慶長年間には地頭安藤彦四郎が信州の諏訪神を合祀し、中略。諏訪神社と改称した。 水利、雨乞い

(記:礒田武志)