中央アフリカ
 ウガンダ 
ルエンゾリ山地 山行
【山行目的】アフリカ第三の高峰であるルエンゾリ山地のマルガレータ峰登頂
【山行期間】2009年2月08日~18(日)
【メンバー】TI、(MY)、(HT) 計3名(男性2名、女性1名)

【コースタイム】 標高、歩程(書いている人によって数値が異なるので)はウガンダ ワイルドライフ オーソリティ(UWA、ウガンダ野生保護局とでもいうのかな)発行のパンフレット記載によって、実際の歩行時間(昭文社山と高原の地図所要時間の1.5倍を常とするメンバーに合わせた)は休憩、食事時間を含む

2月08日:移動日:エンテベ空港10:14 – ムバララ – 18:50カセセ
2月09日:第1日: カセセ – ニャカレンギジャ(1615m)10:22 – 16:11ニャビタバ ハット(2651m)、約4-5時間
2月10日:第2日: ニャビタバ ハット(2651m)7:58 – 16:34ジョンマッテ ハット(3505m), 5-7時間
2月11日:第3日: ジョンマッテ ハット(3505m)8:26 – 15:59ブジュク ハット(3962mあるいは4075m) 5-6時間
2月12日:第4日: ブジュク ハット(3962m)8:50 – 13:50エレナ ハット(4430mあるいは4540 m) 3-4時間
2月13日:第5日: エレナ ハット(4430m)5:39 – 11:34マルゲリータ(5109m) 11:55― 16:28エレナ ハット(4430m) 6-8時間
2月14日:第6日:エレナ ハット(4430m)8:30 - 12:10キタンダラ ハット(4023m) 3-4時間
2月15日:第7日:キタンダラ ハット(4023m)7:59 – 14:45ガイユーマン ハット(3505m) 4-6時間
2月16日:第8日:ガイユーマン ハット(3505m)7:29 – 15:40ニャカレンギジャ ルボニキャンプ(1615m) 3-4時間.
2月17日:調整日:ニャカレンギジャ
2月18日:移動日:ニャカレンギジャ – クイーンエリザベス国立公園

【山行記録】(記=TI)
8日:移動日
 新座山の会の皆さんとキリマンジャロ山のウフル峰に登頂して高度順化を終え、ナイロビ市内で2泊して垢を落とし、アフリカ名物ゲームミート(野生動物の肉)のBBQ(バーベキュ)に舌鼓を打ち、ナイロビから180km離れたナクル湖国立公園に出かけてゲームウオッチ(野生動物、水鳥特にフラミンゴ)を楽しんだ。羽田から07日に到着するHTさんを待って、08日早朝にホテルをチェックアウトし、ナイロビ国際空港からケニアエアウエイズに搭乗してウガンダのエンテベ国際空港に到着した。
 空港出口でパールオブアフリカ(PA、現地旅行会社)の運転手ハムさんの迎えを受け、荷物を積み込んでルエンゾリの登山基地であるカセセに向かった。小雨で街路樹、庭の芝生の緑が冴え、赤い屋根、白い壁のエンテベの街並みが美しい。首都のカンパラに近づくにつれ、原色のペイントを塗った煉瓦壁、トタン屋根の商店が軒を連ね、自動車、オートバイ、自転車、人が道に溢れるようになった。トラックの荷台、市場や商店の前にはパパイア、ジャガイモ、青い料理バナナの大きな房が山積みにされて活気がある。我々の乗った車もそうだが見かける四輪駆動車はトヨタで小型中型トラックはいすゞ、フソーと言う具合で日本車が大部分であった。中には側面に日本語が書いてあるものもある。東アフリカはスターリング地域(旧英国植民地など)で車は左側走行のため右ハンドルの日本の中古車が重宝されている。カンパラ中心部への道と別れてカセセ向かう。次の分岐ではハムさんが「途中で昼食を摂るので遠回りだがムバララ経由南周りでカセセに向かう」という。ドドワールド(DDW、ケニアの旅行会社)の佐久間さんが送ってきた日程表にはフォートポータルでと書いてあったのでハムさんに確かめると、「昼食を摂るにはフォートポータルは遠すぎる」という。PAとDDWとの間の連絡悪さに一抹の暗雲を感じた。 ウガンダはパールオブアフリカ(アフリカの真珠)と呼ばれたように車窓の外には豊かなバナナ畑、牧場、緑濃い森が流れていく。所々の町や集落では小さな商店が軒を並べ、レンガ、木材、家具、衣服、携帯電話、スナックや清涼飲料水を売っている。町々には小学校、中学校があり、学校毎に緑、青、紫、茶、白など決められた制服を着た学童、生徒が校庭、門、そして側道を集団で歩いているのが目に付いた。どこでも男女とも丸坊主なのが面白い。町や集落の入口・出口、分岐や公共施設や市場近くにはバンプがあって車は速度を落とさなくてはいけなくなっている。速度を上げて車が通り過ぎる町外れの路肩には所々に木炭の袋、薪、干草が積み重ねられて客を無人で待っていた。
 昼食を摂るためにマサカの町のレストラン、ニューハイウエイ テイク アウェイに入った。お客は欧米人かネクタイを締めたウガンダ人で占められている。料理のウガンダ名が分からないのでブフェ(日本ではバイキング)は選ぶのに苦労しなくていい。料理バナナを潰して蒸したマトケ、玉蜀黍粉を練ったウガリ(スワヒリ語だけどウガンダでは?)、マッシュポテトを少しずつ取ってそれに牛肉、鶏、山羊のスチューを懸けてみた。初めて食べるマトケが微甘くて一番だ。それにウガンダのビール、ベルで喉を潤し、名物のパインアプルでしめる。見るとハムさんはバターライスを取っていた。お腹が膨れたところで車に乗って国道を猛スピードでカセセに向かう。
 ムバラバの町で給油がてらトイレ休憩して郊外に出た。高原の森が広い茶畑に代わり、再び牛や山羊の牧場やバナナ畑、二次林らしい自然林の間を何時間もかけて過ぎて行くと左右はサバンナとなった。「クイーン エリザベス国立公園、向かいがルエンゾリ」とハムさんは短く伝えた。フロントガラスの向こうの雲で暗くなった空の下にぼんやりと高い山地らしいシルエットが霞んで小さく見える。突然、「バブーン」と言ってハムさんが車を路肩に寄せて停めた。国道に数頭のアビシニアヒヒが座っている。我々を睨みながら左の森へ移動していくのを待って再び発車した。すぐに今度は「エレファント、左」と言って車を停める。道から2~30m先に数頭のアフリカ象の群がいた。写真を撮ってソロソロと象から離れると、「アゲイン」という。直ぐそこの茂みと2~30m先に子象を連れた群がいた。「ゲームサファリをする必要はないね」と言いながら後にすると直ぐ近くに赤道を示すモニュメントがあった。赤道からすぐ北にコンゴ民主共和国に向う国道が分岐し、数台のトラックが事務所の前に止まっている。道なりにカセセ・フォートポータルの方向に右折すると左は綿花畑、右はカクタス・ツリーが林立するクイーン エリザベス国立公園のサバンナに変わった。路肩の草を食べながら牧場に帰るロングホーン牛の群をやり過ごす。自転車やオートバイに乗っている人や民家の数がどんどん増え、多数の人が屯しているバスターミナル?が見えるとそこは今日の目的地の「カセセ」とハムさんは言う。ここからは前衛の山に隠されてルエンゾリ見えない。マルガレータホテルの看板がある分岐で左折して暫く丘を登っていくと左にマルガレータホテルがあった。
 待っていたガイドのジョエルさんとハムさんは顔見知りのようである。チェックインを済ませ、荷物を部屋に運んでもらった後、フロントに取って返して脇のレストランのテラスでジョエルさんと自己紹介がてら打ち合わせをした。テラスから見えるという評判のルエンゾリは雲に隠れて何も見えない。MYさんの作った日程表で9泊10日の日程確認、装備、ガイド・ポーターの数を確認する。「ロープは持参していないのでジョエルさんが手配してください」と言って明日の迎えの時間、朝食の時間を確認してジョエルさんと別れた。

2月09日:第1日: ニャカレンギジャ(1615m) - ニャビタバ(2651m)
 下山後回収する荷物をマルガレータホテルのフロントに預け、全員のポーター用荷物とバックパックを積み込んでハムさんの車でジョエルさんとカセセに下る。カセセでコックのロバーツさんとロバーツさんの荷物(食料など)を積み込んでフォートポータルに向かう舗装国道を4㎞進んだところで左の未舗装道に入る。ムブク川に架かる橋を過ぎて、左右のバナナ・コーヒ畑やマンゴーなどの木に囲まれた農家、商店、ロッジや見ながら悪路に体を揺すられながら谷の奥にすすむ。揺れる車の窓から見る看板、標識などから判断するにバコンジョ人が住むイバンダ村のニャカレンギジャという場所まで来たらしい。
 何軒もある建物のうち、最も人が屯している右側の門を開けてもらって広い庭に車が入った。「到着、ここで降りてください」という指示に従って車から降りてジョエルさんが示す秤までポーター用荷物を運ぶ。ジョエルさんにポーター用荷物の秤量立会いを任せる。ルエンゾリマウンテニアリングサービス(RMS)の係員の計量値20㎏、13㎏、12㎏と書いた紙を示してジョエルさんは、「12.5㎏を超過した計7.5㎏のポーター1人分の料金($110)を負担しろと言う。「我々はDDWに(PAを通じて)登山者1人当たり、ポーター4人分の料金を支払った。料金はPAと交渉してくれ」とジョエルさんに言って、MYさんはPAの交渉窓口(ベンさん)に渡すメモを書いてハムさんに渡す(RMSのパッケージ料金には登山者1人当たり25㎏すなわちポーター2人分(賃金、食料込み)が含まれている)。見回すと庭の奥でカーキ色の制服を着た人達が集まって朝礼訓示を受けていた。係員の案内で事務所に入って入山届を書式にしたがってノートに記入する。その間、ジョエルさんは女性係員に書類を見せている。入山料やガイド、ポーター雇用料金の支払領収書のようだ。先客のウガンダ在住ドイツ系男女と並んでソファに座っていると制服を着た人が何人か入ってきて隣に座る。書類を検査していた女性係員が出てきておもむろにソファの前の地図を差しながらセントラルサーキットのコースの説明を始めた。日本で聞いた話と違って麓からエレナ ハットまで、至るところボグ(泥濘、湿地)だらけでゴム長靴以外は駄目らしい。「飲み水も2番目の沢以外そのままでは飲むな」という。「ブジュク谷~ムブク谷を周回するセントラルコースのトレッキングは6泊7日、マルゲリータ峰を登頂するには更に1日を追加する(7泊8日ということ)。頑張ってね」といって説明を終え、「この2人があなた達のガイドです」と紹介してくれた。制服の2人はアロージャスとジョセファと自己紹介して、まず「レンタルする道具はないか」、「マルガリータの他の峰には登らないのか」と聞いてきた。「あれ!ジョエルさんやPAから事前の連絡は無かったのだろうか」と思ったがジョエルさんに言ったように、「他の峰には登る計画はない。ロープ以外は持参した」と伝えて、2人に準備を頼んで事務所の外に出た(マルガレータと対になっているアレクサンドラを追加するとパッケージに追加$120)。
 後で分かったことだが、ここはルエンゾリマウンテニアリングサービス(RMS)のニャカレンギジャ登山口事務所で、ルエンゾリ山地公園のニャカレンギジャ事務所(RMNP)はまだ先であった。RMSは1987年にトレッカーや登山者の運輸支援を始め、ウガンダ野生生物局(UAW)の認可を受けてセントラルサーキットのトレッキングサービスをおこなえる唯一の団体で、ボコンジョ人の非政府組織(NGO)だそうだ。RMNPもRMSも事務所を開いているのはなぜか月、水、金曜日だけだという(従って出発の日は月、水、金曜日に限られる)。ジョエルさんとロバーツさんの会社はレインフォレスト アンド コミュニティ ツアー(RCT)と言う会社で、ルエンゾリ山地ではニャカレンギジャ(ボコンジョ人の)集落歩きや森歩きを案内する。だからジョエルさんはセントラルサーキットのガイドはできないということだ。我々はルエンゾリ山地のマルガレータ峰に登るために、DDW―PA-RCT-RMSと随分、旅行会社の下請けを重ねた(多分コミッションも余分に取られたかも)ことになっていたと始めて気がついた。
 荷物を纏め、ポーターに指図をしていたコックのロバーツさんは「ジョエルさんは用事があるので、後でポーターと追っかけてくる」と言う。そう言えばジョエルさんは登山道具を持たず、平地の服装で町歩きの革靴を履いていた。カンパラに帰るハム運転手に、PAのベンさんヘメモを渡すことと迎えを確実にと言付けて(チップを渡して)お別れし、入口の門を開いてもらって外に出た。外には多数のボコンジョの人達が臨時ポーターの職を求めて声が掛かるのを待っている。「そう言えば我々はポーター全員と顔合わせすることなしに出発することになってしまった」とふと不安になった。 細い天然木の杖を持ったジョセファさんを先頭にムブク川西岸に沿って緩やかに赤土の登山路を登る。我々3人のうち、二人はダブル、私はシングルストックを突き、行き交うボコンジョの人たちに挨拶しながら、民家、発電所用水路、用水地、アシ(ガイドは葦といったが穂はまるでエノコログサ)で囲った畑、ロッジやキャンプ地の脇を抜け、公園入口事務所に向う。赤道直下の太陽が照り付けて辛い登りだと聞いてきたが曇り空と茂った草木の影のせいで心地よい。風が無くすこし湿度が高いのが気にかかる。約45分掛って茅葺民家の姿を真似たルエンゾリ山地公園入口事務所の建物前の広場に着いた。
 広場にある木陰のベンチで休んでいたボコンジョの男女に挨拶してガイドは我々を公園係官の前に連れて行き、書類を提出した。入園料(単価:海外国籍の非居住者1日/泊 $30、RMSのトレッキング/登山パッケージ$990に含まれる)支払い領収書なのだろうか。公園係官の書類検査後、RMSと同じく、指示されるままに各自、入山届を所定のフォームでノートの前の行を参考にしながら記入した。山行目的の項目にはマルガレータとかトレッキングとか書いてあるがこの数日は圧倒的にマルガレータが多い。見ると何日か前にクロダさんという日本人がマルガレータと書いていた。全員記入を済ませ、係官に「下山したらまた」と挨拶をしてまた外に出る。再びジョセファさんを先頭に一列になって歩きよい土道を登って行った。 少し歩いたところに3枚の看板がぶら下がった門がある。「ここが公園入口ゲートで、この先が国立公園の区域です。まず公園の概要と規則を説明します」と言ってアロージャスさんの講義が始まった。興味があったのはルエンゾリ山地が植生によって5つ、すなわち標高1000-2000m草地(サバンナ)耕地や牧場、2000-3000m 山岳森林、2500-3500m 竹林/ミムロプシス帯、3000-4000m ヘザー(ヒース)/ラオアナネア帯、4000-4500mアフロ-アルプス草原帯に分けられていることであった。もちろん4500-5109mは岩と雪氷の世界で植生はない。
 一通り看板の裏表を使った説明の後、いよいよ低地赤道雲霧林の中をムブク谷へ下っていく。道は細くなってようやく登山道らしくなった。インペイシェンス、野生のバナナ、色々な蔓植物にブラックベリー、三角カメレオンに行列蟻などルエンゾリらしい動植物を楽しみながらムブク川の岸まで降りた。川の水はフミン酸のためか薄く醤油色に染まり岩にぶつかって白い泡を立てている。そこから登山路はムブク川から離れて左の山腹を縫って小さな木橋に着くまで雲霧林の中を通る。橋を渡って木の階段を登り、緩やかな傾斜の尾根を進んで行った。「この辺りは森林アフリカ象が住んでいる。密猟者が一頭(?)殺したので最近、姿を見せることは無くなった。だけど象がいる証拠に藪の中に糞や通り道を見つける事ができる」とガイドが2人して説明してくれた。パンフレットによれば「過去何年にもわたる密猟のせいでこの辺りの森林アフリカ象は人を襲うことがある。ガイドと レンジャーは森林アフリカ象を素早く見つける訓練をうけているのでいれば登山者の安全を確保するようにします」とあった。
 森林アフリカ象の縄張りの切れ目というマホマ橋を渡ってシダ(大型のワラビ羊歯)の原を登るとベンチを設置したランチプレースがある。我々も休憩がてら出発時に貰ったランチボックスを開いて昼食とした。生活習慣の違いか、ガイドは我々のような昼食をとらず、川で汲んだ水とクッキーだけで過ごすようだ。MYさんとHTさんが食べきれないランチを渡すと喜んで平らげた。 昼食を終え、今度は急な斜面を登る。広い谷のこちらから向こうの斜面まで木々は本当に雲霧林らしく高く、大きく枝葉を広げている。ガイドが「あそこにブルーモンキー」といって指をさす。枝から枝へ黒いもの何匹も跳んでようやく居場所が分かった。ゆっくりゆっくり歩いて登っていると、「チンプが吼えあって合図を交わしている」と言って谷の向こうを見つめだした。テレビで聞いたことのある声が何箇所からか聞こえ初め、暫く鳴きあって移動していたが静かになってしまう。「見えたか」と聞くと、「ノー」、頭の良いチンパンジーに会えるのはよほどの幸運が無ければ無理らしかった。
 このコースの要所には階段、橋、ベンチがあり、疲れた登山者のことを良く考えてある。森が切れて陽射しの良い道では両側にワラビ羊歯が増え、時には草原となっていた。「食べられるか」と聞くと「フライにして食べることもある」という。若芽を折った跡が随所にあったが踏みつけたからなのだろうか?もちろん登山者は国立公園内で如何なる物も採取したり持ち出したりしてはならない。 高度を稼ぐに連れ、木の枝にもサルオガゼや懸垂性の杉蘚類が時には玉のようになって着いてきた。尾根が近くなると広葉樹も幹が細くなり太陽を求めてひょろひょろと高く伸び、木々の根元の藪もどんどん薄くなる。そんな尾根筋を歩いて行くと苔が生えた岩の向こうの木立の間に何軒もの緑色に塗った小屋が見えてきた。「ニャビタバ キャンプに到着」と言ってガイド2人が我々3人に握手を求める。
 岩の後にある最初の小屋が登山者用で広場を挟んでキッチン、その向こうにガイド・ポーターの小屋がある。登山者用小屋は前後に壁で2分割され、それぞれに入口があった。表側の半分には既にドイツ人男女の他何人かの欧米人が入っていたので、裏の半分を我々3人で使うことにした。中に入ると電灯はないものの2段ベッドが3つ、ベッドには厚いウレタンマットと枕まで備わっていた。入口の外にはテーブルがあり、すぐにロバーツさんがテーブルクロスを敷いて熱い紅茶とクッキーなどの準備をしてくれていた。小屋から見て広場の左にはトイレが2つ、キッチンの向こうには水道(マホマ湖の生水)、そして冷水だがシャワールームまである。ガイドが携帯電話を握ってうろうろしているところをみるとポーター・ガイド小屋の奥のアンテナは携帯電話用なのかもしれない。バックパックのアルコール温度計を見るとこの高さ、この時刻で気温は16℃もあった。ところでコックのロバーツさんは何時、我々を追い抜いたのだろうか?
 ロバーツさんが夕食を運んできて、「ジョエルさんがマラリアで発熱して下山した。ポーターも一人付き添って行った」という。「それではチーフガイドの代理は」と聞くと、「アロージャス」という。こんどはアロージャスさんとジョスアさんが加わって来て、「何泊何日の日程か?」と我々に尋ねた。MYさんが日程表を出してジョエルさんと確認しあったように、「9泊10日、DDWからこのようにエレナ ハット1泊とキタンダラ ハット1泊追加した日程を受け取っている」と答えた。3人は「RMNPは7泊8日しか認めない」、「食料は7泊8日分(パッケージに含まれないが追加料金6泊7日で$140と思われる)しかない」、「ジョエルさんに連絡が取れない」とか口々に言う。結局、我々も「8泊9日でそのうちエレナ ハット2泊、残り1泊はガイユーマン ハットでジョエルさんと連絡を取って決める」ということで登山を続けることにしたが、エレナ ハット2泊にガイド、コックの明確な合意はなかった。ジョセファさんはポソっと小声で、「ジョエルは金勘定ばかりしている」と言うし、MYさんは「ジョエルは逃げた」と言う。どうもエンテベ空港からの不安が的中してしまったことになった。

2月10日:第2日: ニャビタバ(2651m) - ジョンマッテ(3505m)
 朝食の時頼んでいた湯冷ましをロバートさんから貰ってニャビタ ハットを出発した。夏山の服装だが今日からバードウォッチング用ゴム長靴に履き替えて泥濘(ボグ)の続く登山路を登ることになる。ゴム長靴は足首の固定ができないので捻挫しやすいと言って日本の登山では忌避されてきた。ゴム長靴党の知人は指で数えるほどしかいない。ゴム長靴で秋田の高松岳を一日中歩いたのは42年も前のことだから少々不安だ。足の裏から道の凹凸が軽登山靴よりはっきり伝わってきた。
 ひょろ長い木々の生えたニャビタ尾根稜線を水道管に沿って分岐まで数百m歩く。ここにも看板があってセントラルサーキットの地図が彫って彩色してあった。直進するとマホマ湖あるいは下山後泊まる予定のムブク川渓谷のガイユーマンキャンプに通じている。 我々は右に曲がって細い登山路をムブク川渓谷に下る。慣れるとゴム長靴でも段差や岩のある道を下れるものだと安心した。下り終わったらムブク川を新しいカーツ-シェファー橋(2600m)で渡る。吊橋だが幅広く、少し跳ねたりする位では揺れもしない。
 直ぐ上流がムブク川とブジュク川の合流点でブジュク川渓谷に入る。「ここからは第2ゾーンの竹林/ミムロプシス帯が始まる」アロージャスさんが背中の方から教えてくれた。竹林の中は泥濘み、滑り易い。登り返し気味の登山路が続く。竹林の中で始めて樋を使った水場にであった。すこし味がするが湯冷ましより冷たくて美味しい。所々に急登や岩があるが足場が付いていたりするので雨で濡れて滑るのさえ気をつければよじ登るのもなんと言うことはない。百合の仲間の花(チレブかスコバガスと言ったような)を愛でながらポレポレでバンブー林を抜け、ブジュク川渓谷を見下ろす尾根に沿ったアップダウンを進む。広く開けた地滑り跡に出た。今日はなぜか銃を持ったレンジャーが休んでいたり、ポーターの様な男女がどんどん我々を追い抜いて行ったりする。ガイドに聞くと「ブジュクで日本人が高山病になった」と教えてくれた。「それにしても大げさな、銃やこの人数~」と思う。登り続けていくとバンブーが消えて 林はどんどん蘚苔で覆われた広葉樹に代わって行く。標高が増えるにつれ、木々や地面の蘚苔は増え、熱帯の密林に入っているという気分になる。
 ハイキニア(発音のまま)という複葉広葉樹の大木の脇で休憩となった。小雨が木々にさえぎられるので雨具を着けて歩くのは鬱陶しい。しかし泥濘がどんどん酷くなるのでズボンは脱げない。もうゴム長靴の中は汗だらけで気持ち悪い。足跡から見るとポーターはそこいらじゅうを歩いているようだ。ひどい泥濘には細い木や枝が置かれ、杖で先を探るジョセファさんの指示通りその上を歩くと沈まない。昼食休憩後、泥濘道の左右は大きな断崖に囲まれるようになった。歩き始めて約6時間30分で今では放棄されたニャミレジュ ハット(?)に着く。壁が壊れて吹き曝しだが避難小屋としては使えそうだ。小屋の先の乾いた岩陰に干草が敷いてあるところを見ると今では小屋より岩陰が避難に使われていると察せられた。左にブジュク川を望みながら渓谷に沿ってゆっくりと上り続ける。 着実に高度を稼ぐと周りは 蘚苔で覆われたヘザー(ヒース)林となり、泥濘もヘザーの根を注意して踏んで行くと歩き易い。先の休憩で「甘い茶を飲みたい」とアロージャスさんに冗談を言ったせいか(どうやって連絡したのだろう?)大きな岩の下でロジャースさんが温かいお茶とクッキーを準備して待っていた。大喜びで紅茶休憩に。目の前の鳳仙花(バルサム ルエンゾリとでも)が美しい。疲れが取れたところで ジョンマッテに向かって出発した。緩い登りで大勢のお祭り騒ぎの人達と背負われたクロダヨシオさんが下山して来るのに出会った。擦れ違った時、鬚面の彼は「日本人ですか?ブジュクで喋ったので、引っ込みつかなくて下山します。登頂成功を祈っています」と言って下って行く。潔いものだ。MYさんいわく「救助に協力すると公園から保険で費用がでるからな。現地の人たちには貴重な現金収入だよ」。
 別れた後、このあたりで運がよければスタンレー山とマルゲリータ峰 (最高峰)を見ることができるというので谷を覆っている雲が青空に替わるよう祈ったが次々に雲が来て何も見えなかった。ジョセファさんの杖探索の効果か、ジャイアントロベリアやセネシオ(グランドセル)の中をひどいボグに会わずに通ってジョンマッテ ハットが見えるところに到着した。見ると広場とキッチンハットの向こうの登山者用ハットには追い抜いていったドイツ系5人が寛いでいた。気温は12℃でヤッケを重ねるだけで過ごせる。時たま日が当たると刺すように熱い。ゴム長靴の中のソックスは汗で濡れてしまっていたので直ぐ脱いで洗って干してみた。 右奥の部屋に荷物を運び込み、ベッドを整えて、入口内側のベンチでいつものようにお茶、夕食となった。
 夕食後、傍らを通った我々と同年輩のオーストリー人男性にMYさんが話しかけて彼のアクセス、日程、費用などを聞きだした。立ち聞きによると彼は、「カセセ在住の若い友人から色々情報を聴取して昨年1月にマルガレータに登った。今回友人2人を連れて登っている。前回は好天で雨が降ったのは下りの1日だけだった。2日も降り続ける今回は忌々しい。(今回は)自分達で運転してコンゴからカセセに入り、カセセの安全でリーズナブルなホテルに宿泊した。食料をカセセの市場で購入して、RMSに出向いて登山料等を払った。しめて2千うん百ドル、ムニャムニャ」とドイツ訛りの英語で話して呉れた。後で「我々はニャカレンギジャ往復で$2900払っている」とMYさんが再確認させてくれた。とは言うものの、彼らもあのドイツ系男女と同じく自炊、それともコックを同伴しているのだろうか?

2月11日:第3日: ジョンマッテ(3505m) - ブジュク(3962m)
 谷間の山の端から上った朝日がブジュク キャンプを射すと草やセネシオに覆われた台地から湯気が立ち上る。室温は15℃もあった。朝食を終えて広場に出てみる。草地だが水を含んでテントを張るには不適だ。そこではロバーツさんが食器を洗ってパッキングしている。
 ジョセファさんを先頭にジョンマッテから水場の沢を渡って西に向かう。ブジュク川を渡渉して、ロアー ビゴ ボグ(第1湿原)に入った。ビゴ ボグは球状に盛り上がったスゲ(花を見るとイグサではないことが分かるが葉は爪楊枝に使えるほどイグサに似ている)の株に覆われた高層湿原で、梯子を寝かせたような木道が敷いてある。注意してリズムよく梯子を踏んでいけば踏み外す事はない。木道には所々に浮きが付いて増水にも沈まぬようになっていた。木道が湿地に沈んだり、壊れている所ではスゲの大株の上に乗り、株から株へ跳んで渡る。株から落ちると膝まで湿地にめり込んでしまう。足の置き場を間違えると腰の深さまで沈んでしまうという。足の置場を探ってくれるガイドの指示を良く聞くことだ。ゴム長靴とストックは不可欠の道具である。草木を掴んでバランスを取るのでダブルよりシングルストックの方が歩き易い。
 ロアー ビゴを渡った後、セネシオやエバーラスティングフラワー (40年毎の開花周期があると言われている)が茂る急斜面を登り、ビゴ ハットに向かう。放棄されたキャンプというが中は綺麗に清掃され、火鉢用のトラックのホイールが小屋中央に置いてあった。ビゴ ハットから急な斜面を登り、泥濘道をアッパー ビゴ ボグに向かう。アッパー ビゴ ボグ(第2湿原)には幅広の踏み板木道がボグの上に敷かれている。踏み板は埋もれかけているが見えるので渡り易い。踏み板が水に深く沈んでいるところでは細くなったブジュク川を渡渉して対岸のボグを歩き、また渡渉し返して木道に帰る。これを繰り返すのだからガイドなしでビゴ ボグを通過するのは無理と思われる。木道が無かった昔は胸や腰まで湿地の泥(泥炭)に浸かったと言う。
 アッパー ビゴ ボグを抜けてヘザー林の中の急斜面を登り、ヘザーの木がエバーラスティングフラワーの薮に代わったアフロアルプス草原帯に入る。沢筋や水分が多い場所ではジャイアント ロベリアやジャイアント セナシオが増え、ジャイアント セネシオの密林の中を登るようになった。アロージャスさんが「ルエンゾリ ダイカ」とジャイアント セネシオの密林の中を指す。木の間に小さな褐色のダイカの体が見えた。アッパー ビゴ ボグとブジュク湖の間のランチプレースに到着して昼食をとる。見下ろすやアッパー ビゴ ボグに続く渓谷は面白い植物で溢れて乾燥したキリマンジャロには無い風景だ。
 ようやく覗いた青空に向かって氷河のモレーンを登って行くと谷の奥に待ちに待ったスタンレー山地の素晴らしい姿が見えた。「右がマルガレータ、左がアレクサンドラ、間がマルガレータ氷河」とガイドが教えてくれる。ジャイアント セネシオの林の中、沢になってしまったブジュク川を何度も左右に渡って最後に溝を跨ぐとブジュク湖が見えた。ここからの湿原は最悪のボグになる。その中でもブジュク湖すぐ近くのボグは最悪で、泥濘の中に沈んだ細い木の上を前後のガイドに手を支えてもらって一人づつ渡る。ガイドの支えなしに渡り始めた気短なHTさんは途中で動けなくなってしまってガイドが助けに行ったくらいだ。ブジュク湖の上には渡ってきた雲から降る小雪が水面に小さな輪を作っているが褐色の水の中に魚や虫の姿は無い。はるか向こうの島近くの水面に鴨が2羽浮かんでいたが我々が近づくにつれ遠くに去ってしまった。
 ブジュク湖からブジュク ハットへ行く登山路は湖の東側の岸にある。湖岸は泥濘続きだがこれまでに比べれば歩きよい。岩陰のクッキングポットケイブを過ぎた草地でようやく谷の奥にブジュク ハットが見えてくる。それからまだかまだかと思いながらの15分でブジュク ハットに到着した。
 ブジュク ハットも数棟のハットで構成され、登山客用のハットはベランダ、食堂と4つの寝室に分けられている。寝室には2列3段のベッドがある。我々は右奥の寝室に入った。お茶、夕食が終わった19:15に測った室温は5℃で今までのハットよりかなり寒くなっていた。

2月12日:第4日: ブジュク(3962m) - エレナ(4430m)
 遅足の我々に配慮してアロージャスさん達ガイドはドイツ系グループより早めにブジュク ハットを出発するようにしてくれた。標準歩程が3~4時間と短く、とても寒いエレナ ハットで登山者は何もすることはないのでゆっくりと出発した方が良いなどとガイドには書いてある。天気も好転して青空の下を歩けるがブジュクからの登山路は尾根に取り付くまで一度ブジュク湖西岸を周り、ひどいボグを渡って行かねばならなかった。尾根下の斜面に着く頃にはもうドイツ系グループに追いつかれてしまった。
 尾根は麓から傾斜が急で、錐崖からグランドセル渓谷に入る。上から見下ろすと左に谷間にブジュク小屋が、その上にはスピーク山塊が万年雪と氷河を被って聳えている。ブジュク川渓谷の右にはスタンレー山塊のマルガレータとアレクサンドラが白い衣装を着けて聳えていた。急な斜面だが岩が出ているところには金属製の梯子なども設置されていて歩き良い。しかし岩がないところはやはりボグで難渋する。この谷は名前通りグランドセルすなわちジャイアント セネシオが密林のように覆っている。途中に展望台とでも言える様な大きな棚があり、トイレ小屋まで整備されていた。ここから見下ろすとブジュク湖が真下に、見上げると威嚇するように大きな尾根が続いているのが分かる。まわりにはジャイアント ロベリアが多数開花してサンバードが飛び交い、囀っている。
 展望台で休憩後、歩き始めるがまだまだボグがあった。岩も出てきてゴム長靴ではと心配になる頃、ガイドが「そろそろボグが終わる」という。ザレが出てきてなるほどと思うが今度は雪の残った岩場の巻き道になった。ジャイアント セネシオも短く、疎らになり、エバーラスティングフラワーの薮と岩の混じりになる。さらに高度を稼ぐと藪さえも薄くなり、残雪と蘚苔で覆われた岩の台地に出た。ポレポレ歩きながら麓からここまで急斜面を登ってきたので暫くの休憩になった。ここはスコットエリオット パスの近くらしい。このあたりから見えるというブジュク川渓谷を挟んだスタンレー山塊とベーカー山地が聳える姿は先ほどからの霧のため隠れてしまっていた。
 岩の上を注意しながら登っていくと霧が切れて目前に谷が出てきた。「エレナ ハットが見える」とガイドが言う。目を凝らすが分からない。「そこ、そこ、三角のハット」というので谷向の岩を右から左にチェックして行くと岩の上に緑の小屋の屋根が見えた。直ぐそこにあるのだが登山路は右に登って一枚岩の上に氷河が削った大きな沢を越さなければならない。残雪、ペルグラ状の氷、雪氷が溶けて流れる水、小雨や霧が降った水に加えて大小の岩、石などが沢道にあるのでゴム長靴が滑ったり、躓いたりするのでその度に肝を冷やし、ハットの脇に出てくるまで45 分もかかってしまった。
 ハットは平らな露岩の棚に引っ掛かっており、露岩の端は展望台なのかドイツ人が立って雲の切れ間を見下ろしている。見上げると雲の中から出入りする黒い岩場と白いエレナ氷河しかなかった。結局、麓から最後のエレナ小屋の直下まで登山靴は不適の泥濘、泥沼続きでハマリこまないようにガイドのステップの通りをゴム長靴で登ってしまった。ルエンゾリは世界でも稀なゴム長靴用山地であると思う。 ハットにポーターが運び上げた荷物を入れ、寝具を広げた後、水場まで歩いてみた。水場から見下ろすと扉が壊れたままのトイレ、キッチンとガイド・ポーターのハット、そして我々のハットがある。登山者用ハットは2分割され、我々のハットの床半分に直接、3枚のウレタンマットが敷いてあった。室温は6℃と予想より高い。
 明るいうちにガイド2人からカラビナ、更にハーネスの着け具合、重登山靴にクランポン(アイゼン)がピッタリ装着できるかのチェックを受けた。夕刻から雷鳴が轟き、強い風がハットを揺すぶり、明日のアタックは13日の金曜日だから駄目かなと心配になる。早めに冬装備に着替えてそのまま寝袋に入ったが壁の裏からは床を重登山靴で歩く足音が響いて度々目が覚めてしまった。

2月13日:第5日: エレナ(4430m) - マルゲリータ(5109m) - エレナ(4430m)
  04:10に起きてヘッドランプ、耳覆い付き帽子、スノースパッツ、雨具上下を着て重登山靴を履いた。4:38にはロバーツさんがポリッジ(オートミール)を持ってきてくれた。室温は2℃と意外に暖かい。MYさんは餅、HTさんは即席ラーメンで出発前の軽食を済ませる。
 登頂できると判断してガイド2人が迎えに来たのでバックパックを背負い、ピッケルを持ってハットの外に出た。霧で曇っているが朧月が稜線の上にあった。ジョセファさんを先頭にMYさん、HTさん、TI、アロージャスさんの順番でヘッドランプの灯りを頼りに登る。水場を越えたあたりで山の端にあった朧月は雲に隠れてしまう。薄氷と雪が着いた氷河と水が削った一枚の岩場を滑落しないように重登山靴で慎重に登る。すこし登ったあたりで氷河が深く削った沢から右手へ岩の上へ岩を抱いて登り、「帰りは下りだから怖いな」と思いながら四つん這いでトラバースした。全体に氷河が削った一枚岩でガバ掴みができるので登るのには難しく無いが岩の上は場所により軟雪、ペルグラ、水と乾いた所がないうえ、側面にはイワタケなどが厚く張り付いて触るとペロリと剥げたりするので気が抜けない。傾斜も急だが遅足のMYさんとHTさんが前にいるので楽に息を継げる。下を見ると雲の隙間でランプが動き出した。ハットのドイツ系登山者も起きたのだろう。
 小さなケルンや細い棒の目印を頼りに、平らな岩の上を歩み、 また沢を通るという組み合わせで1時間45分(パンフでは標準1時間)掛ってエレナ氷河の末端を見下ろす岩場まで登ることができた。 霧が立ち込めているがもうヘッドランプを消しても良い明るさになっていた。岩場の上でハーネスを穿いて重登山靴にクランポンを装着し、ついでジョセファさんを先頭にMYさん、アロージャスさん、HTさん、TIの順番にハーネスをガイド持参の使い込んだ一本の13ミリロープに等間隔に繋いだ。ガイド二人のロープワークは素晴らしい。アロージャスさんが全員の装備を再確認した後で順番に岩場を下ってまず氷河先端の雪壁を登る歩行が始まった。
 視界はザイル一本分(40m)もない。雪壁を越すとエレナ氷河は比較的緩やかで、雪も柔らかくアイゼンを蹴り込むのも楽だ。目を凝らすと霧・小雪の中の雪上に目印の棒が立っているのが見えた。40分歩いて小休止した後一層濃くなった雪の中、氷河を再び登る。時々、ガイド2人が集まって目印を確認していた。そうこうするうちにドイツ系グループがお揃いの真新しい細引きで2人1組づつに繋がって脇を追い越し、トレースを残して登って行ってしまった。トレースを辿って登るにつれ、雪雲を通してエレナ氷河の左右に黒い壁が見えるようになった。ジョセファさんは右の露岩部に入ったらしい。ロープ前のHTさんを追ってクランポンをガチガチ鳴らして岩場をアップダウンし、次の東スタンレー氷河(アトラストレックのホームページ記載のスタンレー山塊概念図)氷河に乗り越した。雪雲が谷底から登ってきてホワイトアウトに近いがガイドは氷河を登り、上り詰めて平尾根に着いた。
 歩いていると「狭い稜線ではロープを丸めずに一杯に展ばせ、広い尾根ではロープを丸めて持っても良い」とアロージャスさんは注意する。尾根の上にあると言う平坦なスタンレー氷原はどちらの方向にも1㎞はあるという。氷原の氷は極めて硬いと聞いてきたが残雪期の腐れ雪のように柔らかくクランポンの歯の間に団子ができてしまう。先頭のジョセファさんの影が薄くなる位の雪雲だがガイド二人はちらちら前後左右を見ながら前進した。雪雲がスタンレー氷原を覆ってホワイトアウト状態になったので止まって薄くなるのを待つ。MYさんに「こんな様子でガイドはよく歩けるものだね」と言うと、「勘で歩いているんじゃないの」という。進み始めて右を見ると目印の棒が立っていた。コルを越えるがほとんど登りはない。氷原の突き当りに露岩部(たぶんアレクサンドラ東南稜の端と思う)があった。
 露岩稜線を登るかと思ったが予想外に沢(ガリーというのかな)に下り、露岩を巻いて登り返し気味に越す。先ほどの露岩部と同じくクランポンをつけたままのアップダウンなので注意が必要だ。手足が短いHTさんは岩の上り下りに苦労していたが要所には短い梯子や固定ロープがあって落ち着いて行動すれば問題はない。乗り越して入った急傾斜の氷河の名をアロージャスさんに聞くと「マルゲリータ氷河」と教えてくれた。随分と下った気がするので滅入ってしまう。クランポンとピッケルに頼って、クレバスに注意しながら先行したドイツ系グループのトレースを辿った。左右の岩稜が近く見えるようになり、次いで左の岩稜が消えて氷河の幅も次第に狭く変わり、暫くして見上げると雪壁のようになったマルガレータ氷河の上に垂直な黒いスラブが見えた。あれがコース最大の山場といわれる頂上直下の岩場だろう。
 スラブの下に到着して見ると、先行したドイツ系グループの最後の2人が梯子と固定ロープがぶら下がる垂直岩面の上下で叫びあっている。アロージャスさんの「順番に」という指示に従って、ピッケルで各自ビレーしてドイツ系ウガンダ在住の女性が登りきるのを待った。まずジョセファさんがお手本に鉄梯子、固定ロープの順に岩面を登って確保を取り、小さなでっぱりに登ってビレーしてロープを垂らした。MYさん、HTさんが登った後、ピッケルを梯子の左の雪に突き立てて残し、ハーネスにロープを繋いで岩に挑戦した。クランポンがあるので足の進め方に迷ったが固定ロープを持って腕力で体を引っ張り揚げてどうにかでっぱりに着いた。ガイドは正統に、緊急時に備えてロープの緩みを手繰るだけで、MYさんが期待した釣瓶のように引き上げるロープワークはしなかった。空気が薄いせいか息が切れて暫く激しい呼吸を続けざるを得なかった。これがマルガレータで最大の難関というが冬に八ヶ岳の岩場を登った人にとってはチョロイものだと思う。
 でっぱりから先は右へ固定ロープを頼りに岩場についた狭い棚を巻き気味に進む。棚が広くなった場所がマルガレータの頂上尾根の肩で先行したドイツ系グループ全員が我々を待っていた。「今度はお前達の番だ」、「おめでとう」と言い交わして交代する。残りは海老の尻尾がベットリ着いた岩尾根を僅かに登るだけだった。11:34に到着した頂上には頂上標以外何もない。雪雲が流れてきてホワイトアウトになったりで展望もない。年に数回しか雲が取れないというから期待していなかったがやはり残念だ。順番に頂上標と一緒に記念写真を撮って11:55に早々に下ることにした。皮肉なことに頂上を下って頂上尾根の肩に着いた頃から雪雲が切れ始める。固定ロープを持ってバランスを取り、でっぱりに帰ってきた。途中、古い固定ロープの切れ端が少なくとも2箇所ぶら下がっていた。金属梯子以外の所からも登れるのかもしれない。ガイドは固定メタルリングを使って懸垂下降の準備を始めた。順番に日本から持参のエイト環やATCを使って垂直岩面を下降する。最後のガイドが下ってくるのを待つ短い間、風に雪雲が払われてマルガレータが姿を現した。マルガレータの姿を撮って、氷河のほうを振り返ると足の下から急な雪壁が伸びていた。
 アロージャスさんが「下りはアロージャスが最後」と言う(至極もっとも)のでTIはハーネスを後から2番目の結び目に繋いだ。 雪雲がそこだけ薄くなったマルガレータ氷河を下る。雲が切れて下が見えるので反って怖い。暫くは急斜面の下りだが徐々に傾斜が緩くなる。それに引き換えてクレバスがそこここに出てきた。大股で越したり、跳んで渡ったりで忙しい。中には誰かが目印にX印をつけたクレバスもあった。歩きに緩急が出るとロープが緩む。緩んだロープを踏みつけた前のHTさんより「弛ませないで歩いて」とお叱りの声が飛ぶ。TIの歩くスピードが彼女よりすこし大きいと結んだロープが彼女の左足前で弛んで踏んでしまうのだ。「手首でなく肘を腰に当ててロープを持てばいいのに」と思ったが、ロープを輪にして弛みを取って歩くことにした。振り返ると、後ろのアロージャスさんも同じことをしていた。
 マルガレータ氷河とスタンレー氷原の間の岩稜も雪雲が遠ざかっているので先々の手足の掛け場が見通せ、楽々と通過できた。見通しの効く平坦なスタンレー氷原はホワイトアウトの登りと比べて不安が各段に少なかったし、スタンレー氷河へ下りもトレースがはっきり見え、雪氷面もクランポンが十分に効いたので鼻歌が出るくらいであった。スタンレー氷河とエレナ氷河との間の岩稜もエレナ氷河の雪壁も楽々下ることができた。エレナ氷河末端の岩場でロープからハーネスを解き、クランポンを外してバックパックに収納した。ガイドからハーネスは穿いたままとの指示が出て面食らう。
 霧が登ってくるスラブの沢に下る。岩の上や沢の中には岩が積み重なったり、転がり込んだりし、岩の間には雪が残ってこんなところを登って来たのかと慎重に下る。平坦な岩場が続いてこれは楽に下れるかと思っていたら例のトラバースの左上に着いた。ジョセファさんがロープをバックパックから出し、岩の上の残置固定スリングにカラビナを付けてグリップビレーしてまず懸垂下降して下っていった。上ではアロージャスさんが回収したロープを再びグリップビレーしてHTさんに下るように指示した。HTさんが下り始める。傾斜が緩やかなので自分の体重を掛けてロープを繰り出すのに慣れてないHTさんは「ロープを出して」叫ぶだけで降下できない。さらにアロージャスさんが「レフト、レフト」と叫んで2本ある沢の左側に誘導しているのだがHTさんは「ジョセファさんがいる方(右側)に」と叫び返して動きが取れない。「あんた達も降りたら判る」と叫びながら、ようやく左側にコースを換えてジョセファさんのいる場所に下りついた。次はTI、アロージャスさんとMYさんの指示の通り、止まることなく降下してジョセファさんとHTさんの待つ沢の上でMYさんを待った。MYさんもアロージャスさんのサポートで降下してきた。MYさんが使ったHTさんのエイト環をアロージャスさんが投げてよこしたが取り損ねて重なった岩の下に落ち込んでしまった。「これは取れないな」と思ったら、アロージャスさんが降りてきて手を隙間に突っ込んでコチョコチョしたらすぐにエイト環が回収できた。やはり細かなトラブルでもまず現地の人に任せるべきだと改めて思った。
 霧が立ち込めてきたがエレナ ハットの水場に続く、この沢は結構急傾斜のように見える。少し下ると沢が広がって一枚岩のテラスになり、水場からトイレ、梯子を登ってキッチンについた。既にドイツ系登山者も大多数のポーターもキタンダラに下ってエレナ ハットは静まり帰っていた。もう16:30になり(我々は5時間も下りに掛ったが標準的にはマルガレータ~エレナまで2-3時間だそうだ)、霧雲が周りを包んでいるので、「これからキタンダラ ハットに下るのか」と不安に思っていたら、キッチンから出てきたロバーツさんが「今日は登山者用ハットのキッチン側半分に、」さらに「明日の朝の食事は昨日の夕食時に話していたように我々が持参した日本食で」という。MYさんが提案したエレナ ハット2泊にコック、ガイドが合意していたのだった。
 ハットの反対側から荷物を移し、ウレタンマットの上に寝具を広げ、重登山靴や濡れた雨具、スノースパッツを脱いでロバーツさんの出してくれたお茶で寛ぐことができた。夕食後、ひどい雷鳴と強風、屋根を叩く霰の音がして、「キタンダラ ハットに下っていたら、途中、暗くなる上にこの嵐に会ったはず」と思う。霰の音が去ると急激に気温が低下して室温も0℃になり、様子を見に来たアロージャスさんが「天候が交替した」と教えてくれた。23:30に外にでたら驚いたことに空には昨夜まで見たことの無かった満天の星が輝いていた。

2月14日:第6日:エレナ - キタンダラ(4023m)
 6:15に起きて外に出たら小屋の外には霰が吹き寄せられ、昨夜は泥水だった水溜りに氷が張っていて寒い。小屋に帰って温度計を見たら-3℃を指していた。昨日朝から5℃下がったことになる。7:30頃、ロバーツさんがポリッジ(粥)と食パン、湯、MYさんの餅、HTさんの即席ラーメンを持ってハットに入ってきた。お湯を持参のα米梅粥に入れ、ポリッジとMYさんに頂いた餅磯辺巻きを食べながら出来上がりを待つ。
 朝食とパッキングを済ませて冬用の服装のままで8:30にエレナ ハットを出発した。ハットの周りはもう霧に覆われて昨夜の星空は本当だったのかと疑ってしまった。ペルグラの着いた岩場(スラブとガリー)をゴム長靴で下る。見るとガイド2人はそれぞれゴム長靴と重登山靴(RMSでレンタルしたという)を履いている。滑り易いペルグラ付き露岩や蘚苔が生えた岩を通るので重登山靴にすればよかったと思う。50分も滑る岩場を下って、背後の霧を透かして見るとポーターがエレナ ハットから荷物を担いで降りてきた。「朝の7時にキタンダラ ハットを出て、登り返して下り、もう追いついて」と、彼らの体力と同時に1日2時間で稼いでしまう効率にも驚いてしまう。そこからひと歩きすると滑り易かったスラブも終わり、エバーラスティングフラワーの薮帯に入ってほっとすることができた。
 9:30頃、ようやく雲の下に出て、深いキタンダラ渓谷を見下ろすことができた。谷筋は遠く伸び、左にドッグレグしてキタンダラ ハットまで時間がかかりそうであった。下るにつれジャイアント セネシオが出てきて、その数を増す。左はブジュクへ下る往路の道だとガイドが教えてくれた。岩を右に回るとブジュクから登ってくる時には見つけられなかったスコット エリオット パスの看板があった。看板に4372mと書いてあるがTIの高度計と大幅に違う。ブジュク ハットで3962mと合わせてエレナの2日間で気圧表示に変化がないのにこの標高差が大きすぎると気にはなった。まあガイドもいることだし、ルートを書き込んだ地図を手に入れられなかったのだから地図読みすることもないと数字を無視することにした。登山路はスコットエリオット パスからさら右に曲がって比較的平らなゴロゴロ岩場を通る。岩の上に踏み跡が着いているようには見えない、なかなか難しい場所だ。よく見るとガイドが踏んで行く岩の左右に小さなケルンがある。
 ゴーロを過ぎていよいよ 深いキタンダラ渓谷ヘ下る。渓谷の切り立ったの底遠くに一対のキタンダラ湖が見えた。急斜面を下っていくにつれ残雪は無くなり、頭上はるか上を雲が流れるようになった。谷底に降りてジャイアント ロベリアやジャイアント セネシオの林になっているモレーンの斜面を上り返す。登山路は右のベーカー山塊からオーバーハングしている大岩壁の下に付けられていて、下ったところにはやはりボグがあった。何度かアップダウンを繰り返す。
 キタンダラ湖を見下ろすジャイアント セネシオの林にヘザーの木が混じるようになる頃、清らかな細沢を渡る。林からアッパー キタンダラ湖を過ぎると最初にガイド・ポーター用ハット前の湿った草原に出てくる。そこからほんの少し歩くとジャイアント セネシオの林に囲まれた登山客用キタンダラ ハットが眼の下直ぐの場所にあった。満開のエバーラスティングフラワーの薮を見ながらハットの入口に回ると右手がロウアー キタンダラ湖で青空と白雲を静かな湖面に映してエレナ キャンプの岩場から想像もできないような別天地であった。セントラル サーキットで随一美麗と思われる。周囲の斜面に多数のジャイアント ロベリアが生えていたが既に花穂が枯れ果てて期待したサンバードはどこにも囀っていなかった。
 ハットの入口にはクッキング道具や料理用ガスボンベを置いたテラス、テラスの右側に上下半分づつ別々にも開閉できるドアがあった。開けて入ってみると広間の奥に3階になったベッドがあった。これまでのハットと同じく内外とも清潔に整理整頓され、窓にはガラスが填め込まれ、金属壁に穴もない。この快適な小屋を3人だけで占領できると喜んでHTさんは2階を一人で、残りの男2人は1階に寝具を広げた。12:10にはロバーツさんがテラスで調理したオムレツ、パン、紅茶が始まり、落ち着いた所でハットの周りの風景や草木、花の写真を撮る。MYさん発案通りにエレナ ハットに2泊しなかったらルート最高の場所でこの晴れた午後を過ごせなかったはずだ。
 昼寝をするMYさんに付き合って寝袋に半身を突っ込んでウトウトしていたら、突然、左足の甲が痛み出し、左足を動かすのがどんどん辛くなってきた。MYさんは「どっかで岩か木にぶっつけたが夢中だったので気がつかなかったんじゃない」と言って痛み止め軟膏剤をだしてくれた。これまで日本でも海外でもこんな怪我をしないように心がけてうまく行ったのにと悔やむ。MYさんがコマイ(氷下魚)の干物を持ってポーター・ガイドの焚き火宴会を慰問するという。一緒に直ぐ近くの岩陰に出かけたが痛みが増した左足を引き摺る始末であった。明日は登り2時間、稜線2時間、下り4時間という。朝までには薬が効いて欲しいものだ。

2月15日:第7日:キタンダラ(4023m) - ガイユーマン(3505m)
 目が覚める度に痛みが出ないように左足の位置を変え、向きを変えして夜が明けた。鎮痛剤が効いてきたのか痛みが薄らいで爪先と踵で動けば痛みが無い。室温1℃と快適なキタンダラ ハットで過ごしたお陰と感謝する。
 アロージャスさんに「足は直っているよ」と言ってキタンダラ ハットを08:00に出発した。小屋裏の細道からフレッシュフィールドパス(峠)(4282m)に着くまで急な斜面を直登する。ジャイアント セネシオの倒木が道を塞ぐ最初こそ土踏まずに力が入ると痛みを感じたがジャイアント ロベリアが増えてくるに従い、歩きよくなった。とは言え、直登は息が切れる、足が重い。視界が開けると直下にロウアー キタンダラー湖が快晴の青空を移して紺色を増していた。
 尾根について平坦な道に変わったが80分もかかってフレッシュフィールド パスについた。看板の後はジャイアント セネシオとジャイアント ロベリアが斜面を埋めてベーカー山地の山頂まで繋がっている。ジャイアント セネシオの後ろから出たマウンテン ハイラックスが隣のジャイアント セネシオの陰に消え、踏み跡にはダイカの糞が散らばっている。ルエンゾリの宝ともいえる小動物が内戦、ゲリラ、密猟で生きながらえたのが判った。フレッシュフィールド パスからは美しい苔の原が所々に、背後にはコンゴ盆地、右手(南?)にはルイジドサボイア山地の稜線が続き、稜線漫歩を楽しめた。ガイドは穏やかな(ゼントル)登山路と言ったがなかなか強かな泥道のアップダウンの繰り返しだ。
 ようやくコンゴに分かれてムブク川渓谷への下りが始まる。ベーカー山地の山腹にはジャイアント ロベリアとジャイアント セネシオが溢れ、谷間遠くには光るマホマ湖が、その先にはカセセからフォートポータルに至る平野(農園やサバンナ)、そこにはヒマのセメント工場の煙が見えた。下り始めの電光道には蘚苔に覆われた変成岩(雪のように光り輝く白雲母片麻岩?)の露頭が岩場になって何箇所も出てくる。苔が生えていない岩脈を踏んで下るとゴム長靴でも摩擦が効いて歩きやすい。電光道はボグに覆われたムブク川渓谷の棚に下る。上から見ると追い抜いて行ったポーターはボグを抜け、棚の端に伸びている沢を通り過ぎようとしている。道に慣れてない我々は一歩一歩確かめて歩くのでどんどん遅れてしまう。スゲの株を頼りにボグを通り、沢でゴム長靴に着いた泥を落としてほっとした。
 棚の端からは急傾斜の谷に代わる。小さな沢が左右から入り組んでいる変成岩の岩場では滑滝の岩で滑るかボグの泥濘に足を取られるかという、厳しい降下になった。大きな滑滝は巻き、ボグの後は谷の左岸の大きな崖の下を通る。崖はカサキ ドル(常時乾いた岩場)とブジョン ドルの2箇所があった。落石があるからといってカサキ ドルを通過して延々と沢、岩場、泥濘を急降下してブジョン ドルで昼食休憩した。アブルッツイ公爵が峰々の探検をした時にどちらの岩場をテント場として使ったのだろうか。いまでもベーカー山地に入るときのテント場として使われているとガイドが教えてくれた。
 崖から開けた谷にでてようやくムブク川の広い緑の草地にあるガイヨーマン ハットが見えた。ヘザー林に囲まれた急な岩場を下ってムブク川の河原に降りつく。午後の強い日差しでエレナ ハットそのままの行動装備だととても暑い。日影に入るとほっとする。登山路が河原から外れるとボグがあり、もう出てくるのは止めてくれと思ってしまう。カバンカ(ガイドの発音のまま)の滝を過ぎ、乾いた草地の先にガイヨーマン ハットが大きく見えた時は「これで今日は終わり」と小躍りしたい気持ちだった。
 ガイヨーマン ハットに着くと、キッチンやポーター用のハットの周りにガイドやポーターの濡れ物が干してある。既に運び込んであったポーター預け荷物から濡れ物を引っ張り出し、我々も登山者用ハットの周りの日向にそれらを並べて乾かした。室温が18℃もある。見るとポーターが集まって右岸(南)側に山の斜面を見つめている。MYさんがポーターの一人に聞くと「あそこにモンキー」と言う。双眼鏡を出して眺めても何処にいるか分からない。MYさんが、「左からあのヘザーの木に」と教えてくれて始めて、黒いブルーモンキーが崖を横切っているのが判った。何匹もいるらしい。ポーターは「サルは今木の上で寝はじめた」という。毎度ながら現地の人の視力には降参してしまった。
 ロバーツさんに蝋燭を貰いにキッチンに出かけたら、コック助手が「アロージャスさんとあっちに出かけた」と崖の方を指す。二人は携帯電話が通じる崖の上に出かけ、ジョエルさんと色々話したらしい。帰ってきて「ジョエルさんの上司が彼に9泊10日と伝えなかったので7泊8日で準備することになった。後の宿泊はマルガレータ ホテルで」と教えてくれた。7泊8日ということはエレナ ハットに二泊したからニャビタバ ハットに泊らずにニャカレンギジャに下山してマルガレータに二泊するという計算になる。マルガレータ二泊分が一万円で納まるなら安全下山を前提に受け入れようとMYさんと話し合う。夕食後、コックとガイド2人がやってきてチップの打診要求を始めた。MYさんが「ポーターは何人?金額はこちらで相談してゲートで渡す」と言うと「2人途中で下ったから総計12人」と言ってひとまず帰っていった。懸案が片付いていないので金額をどうするか、考えどころだ。HTさんからはチップ、宿泊について意見はなかった。ガイユーマン ハットは草原とムブク川の向こう(北)に、ヘザー林のベーカー山地が雲の上に聳える景色の良い場所だ。何も案ずることなくキャンプを楽しみかったのに・・・。やはり夕方から雨が降り出した。

2月16日:第8日:ガイユーマン(3505m) - ニャカレンギジャ(1615m)
 予想通りロバーツさんは、「今日はニャカレンギジャまで下る」と言って「そこで二泊できる」と続けた。どうも結論は出発の時から出来上がっていたのではないか?
 ガイヨーマン ハットの裏にある小道へ07:30に入った。相変わらずヘザー林の中の泥濘道を下る。天気が良い上に何度もルエンゾリ トゥラコ(特産鳥類)を間近で観察できたのが救いであった。所々でムブク川の河原に出て滑り易い石を踏んで川を横切ったり、川に沿って下ったりする。登山路は次第にムブク川から南に離れて泥濘の多い森林を避けるのだが今度は岩場、オーバーハングした崖地域を進む。崖の下は乾燥している。「ここからキチュチュ (クチュチュともチュチュとも聞こえる)、土埃っぽい場所という意味」とアロージャスさんは教えてくれた。キチュチュも最初のうちはそんなに傾斜がないが、すぐに急傾斜の岩場に代わる。滑落しそうな場所には木製梯子が設置されているが修理に手が回っていない所もあった。また急傾斜の岩場で登山路と岩面を流れる沢と何度も交差するので注意して下らねばならない。最後の梯子の下は湿った草原でテント場、キチュク キャンプのようであった。
 すでに到着していたポーターとコック助手が全員集まって我々を待っていた。いままでと違う雰囲気だ。休憩中にガイドがMYさんに、「チップをここで呉れないか」と言う。どうもポーター達もそれを期待している様子だ。MYさんは「ゲートで」と繰り返す。
 キチュク キャンプを過ぎると登山路は竹林帯に入る。ブジュク渓谷よりムブク渓谷のほうが竹林ははるかに広く斜面を覆っていた。竹林の中はやはりボグ道が続くが竹を掴めるので幾分歩き易い。尾根を下っていくにつれ、再び沢音が大きくなり、ムブク 川を渡るキクク橋に着いた。この新しい橋を渡ると登山路はムブク川渓谷岸の竹林を登り、ニャビタバ尾根の稜線に着く。稜線は竹林からひょろ長い山岳森林に代わり、道も次第に乾燥してくる。マホマ湖分岐から先は広いトレッキング道となり、涼しい風も通り始める。鼻歌交じりでニャビタバ尾根を下ってとうとうブジュク川渓谷分岐に帰ってきた。アロージャスさん、ジョセファさんと握手して無事を祝い、水道管沿いにニャビタバ ハットに向かった。
 ニャビタバ ハットで昼食休憩となったが再びガイド、コックのチップ要求攻勢にあった。MYさんは同じ答えを繰り返し、「我々が旅行代金を支払ったケニアのDDWと電話連絡をしたい」と改めて伝えた。彼らは「OK、もう少し下った所に何社も携帯電話が通じる所がある」と言って帰っていったがMYさんが席を外した時を見計らってTIに「MYはなぜここでチップを呉れないのか?」と聞きに来た。「MYさんはゲートでチップを渡すと言っている。もしも残り二泊の費用を我々が負担するようになったら我々は不満足だからチップからその費用を差し引く」と答えた。理解したようで帰って行ったが納得したかは分からない。入れ替わりにロバーツさんが「ジョエルさん持ちでニャカレンギジャで二泊できるようになった」と連絡に来た。
 本日登ってきたアメリカ人が「札幌、大阪、横浜と素晴らしい旅行をしてきた」、われわれも「素晴らしいルエンゾリを楽しんで」と返して青空の下、ニャビタバ ハットを出る。往路と異なり、下りは木々の緑や路傍の草花を楽しめるが感激は薄い。途中のランチプレースでMYさんがDDWの社長に今回の顛末を電話した。話の途中で料金がチャージした金額に達したため電話が切れてしまったが、社長はなにかトラブルがあったと理解したに違いない。ランチプレースから下ったマホマ橋の袂ではこの二、三日雨が少ないのか吸水に来た蝶が空中を乱舞し、地上に集団をなしている。なかには登山客やポーターに踏まれて可哀相な姿ものも散らばっている。陽射しが強く暑いので日影を選んで下る。登り返してニャカレンギジャ ゲートに帰ってきた。
 「ルエンゾリを踏破し終えたんだ」と感傷に耽る間もなく、ガイド、コックの3人がチップを要求し始めた。MYさんに「ここがゲートだから、チップを渡したら」と提案した。オーストリー人登山者がMYさんに教えた金額はDDWが日程表に記していた「ポーター・ガイドに$5~10」の半分であった。MYさんは我々の了解の上、DDWの金額を渡すことにし、人数がはっきりしないポーター分はロバーツさんに渡して分配してもらうことにする。チップを受け取ると3人でなにやら相談していたがすっきりした様子で歩き始めた。
 ゲートからしばらく歩いた薮脇の道で出迎えにきたジョエルさんに会う。杖を突いて病み上がりのような歩みだったので「マラリア発熱は本当かも」と思った。すぐにRMNP事務所に到着する。今日は外のベンチに誰もいない。事務所に入って下山届とアンケートを記入した。アンケートの中、公園の運営に関する登山者提案の欄は日本からメールで送ると言って書かないで許してもらった(早く送らなければ)。係官のムブサさんの話では「ルエンゾリ山地国立公園に年間千人のビジターが入る。その中の何人がマルゲリータ登頂できるかは知らないけれどね。ブジュク ハットから下山したクロダ ヨシオさんは元気になったよ」とのことであった。ハットのベッド数を16~20人、1週間で事務所が開いて入山できる日が3日、月に4週、登山は2回の乾季に2月づつとすると770~1000人と計算できる。「なるほどトレッキングの最適期は各ハット満員が続くのか」と思った。RMSに事前予約が不可欠だ。
 小一時間歩いてルボニ コミュニティキャンプに到着した。ジョエルさんの先導でレストランまで登る。宿泊場所はさらに坂を登ったところとのことでポーター預けの大荷物をキャンプのマネジャーに運びあげてもらった。着いて見るとしっかりしたテントが二張、一方がシングルベッド、他方がツインベッド、テントの上は草葺屋根になっていた。入口の鍵を開けて男性2人はツイン側に入る。荷物を放り込んでレストランのテラスに降りる。 ガイド、コック、ポーターが全員集合し、最初の一本はMYさん持ち、後は各自払いということで恒例の乾杯パーティを開いた。下山後のビールは何時でも何処でも気分を良くしてくれる。MYさんはルボニ コミュニティキャンプの従業員にルエンゾリの歌を歌って貰って「チップをはずみすぎた」と言っていた。結局18本のビール・ソーダを我々持ちで飲んだらしい。
 乾杯後、ポーターの一人が「ロバーツさんから一人当たり$10しか貰ってない。いくらロバーツさんに渡したのか?」とTIに詰問しに来た。「もっと沢山渡した」といったら、ロバーツさんと口論を始め、ロバーツさんはとうとうポーター全員を追い出してしまった。「コック助手に増額したので」と弁解していたがガイド、コックの取り分を増やし、ジョエルさんにも分配したのではなかろうか?ジョエルさんが現れる前にチップを執拗に要求していたのも3人で配分を決めたかったに違いない。MYさんが聞き出したところによるとルボニ コミュニティキャンプの女性従業員のジョーゾさんは高卒18才で月収$25とのことであった。それから考えてみてポーターに$10は妥当なのかもしれない。もちろんポーターはRMSからポーター料を貰う。理想は我々からチップをポーター一人づつ直接渡すのであろうが、今日始めて顔を見た気がするポーターもいるという状態では難しかった。

2月17日:調整日:ニャカレンギジャ(1615m)
 夜明けにルエンゾリ グー、ルエンゾリ グーと囀る小鳥達に目を覚まされたが遅い朝食までベッドの中で転がったままうとうとと過ごす。朝食後、キャンプのマネジャーが「カメレオンを見たことがあるか」という。聞き返すとテラス脇の木にいた三角カメレオンを折り取った枝に乗せて持ってきた。ここでもカメレオンを手で掴むことはしない。また「今日、ビレッジウォークはどうか」とも言った。マネジャーに返事したように、MYさんとロバーツさんとの昨日の約束では、10:00にロバーツさんがキャンプに来て一緒に下界に下りる予定である。時間が過ぎてもなかなか現れない。かわりにジョエルさんが顔を出して「PAの運転手はカセセに来ている」と教えてくれた。
 三十分は遅れて「洋服屋に行っていたので遅れた」と鬚、髪を整え、さっぱりした格好で到着した。アフリカ時間としては早いほうか。ルボニ コミュニティキャンプの入口まで降りて、まず登頂証明書を貰うためにRMSニャカレンギジャ登山口事務所に向うことになった。ルボニ コミュニティキャンプの入口向かいにはRMSのゲストハウス(ロッジ?工事をしていた)があったが「やはりRCTの経営しているルボニ コミュニティキャンプを利用させたのだな」と納得し、ニャカレンギジャのボコンジョ集落へ下った。サンダル履きででこぼこ道を40分かけて歩いてRMSニャカレンギジャ登山口事務所のゲートに到着した。今日は誰も門や塀に屯していない。まず各自、登頂届を書いて、暫く待って登頂証明書を貰った。待っているとさっぱりした平服のアロージャスさんとジョセファさんが入って来て事務員から書類を貰っている。ガイド料に違いない。事務員の女性達からは登頂の祝福を受け、ガイド2人にはそのお礼の挨拶をする。MYさんが下山中約束していた家族11人との夕食をジョセファさんに確認した。
 事務所を出てイバンダの市場見物に向かう。事務所の並びには商店街になっていた。連れて行かれた居酒屋兼食堂らしき店には薄暗い照明のもとジョセファさんの家族・親族が集まって酒盛り中のようであった。「今晩よろしく」と皆さんに挨拶して真昼の陽射しを受けつつ市場に向かう。往路では車窓から見ていた風景だが歩いて左右を見ると違った印象を受ける。MYさんがジョエルさん、ロバーツさんと話していて思い着いたのか、ボコンジョの民族ダンスを夕食時に見ようということになる。ロバーツさんの案内で民族ダンス団の事務所に入って時刻、場所、費用の交渉を行った。こんな交渉は我々の営業所長 MYさんに任せるに限る。結局、$35、ルボニ コミュニティキャンプ、夕刻にダンスショウの運びになった。 事務所をでてマーケットに進むと商店街は直ぐに途切れ、バナナ・コーヒー畑に農家が点在、所々に塀を廻らした大きな家屋がある。看板を見るとロッジ、イン、レストランなどと書かれている。ちょうど昼時のためか小学校から自宅へ昼食に帰る子供達がひっきりなしに通る。このルエンゾリ地域は大都市を除けば非常に人口密度の高い所だといわれているのが頷ける。発電所があって配電用電線や水道の水栓も見えるから貧困度も低いようだ。
 ジョエルさんが「ここで昼食」と言って案内したのはルエンゾリ ベースキャンプ ツーリストホリディインーイバンダという宿屋兼食堂であった。周りはバナナ畑で収穫間近の房には突っかい棒をして支えてある。昼食後、市場までタクシーバイクで行くことになった。運転手と客2人が1台に乗る。MYさんとTI、HTさんとロバーツさんに分かれてバナナ畑の間の道を下っていく。道が広がって市場が見える。学校から帰った子供達も市場の店先に集まって物珍しそうに我々の方を見ていた。カンパラ、ムバラバ、カセセのような大きな市場ではなく、活気や熱気は何処へやらとても鄙びてのんびりした気分が漂う。八百屋の店先で萎びたポテト、不揃いのトマトを、魚屋でナイルパーチの頭の燻製やティラピアの干物を冷やかし、肉屋でぶら下がっている牛や山羊を見たり、日用品の店番の伯母ちゃんと話したり、野生蜜蜂の蜜を買ったり、外国人に好奇心満々の子供達と臍比べをして一時を楽しんだ。昨日のMYさんの提案ではカセセまで見物に行くという話でロバーツさんと合意のようであったがどうもイバンダのマーケットでお茶を濁したようだ。帰りはルボニ コミュニティキャンプの入口までタクシーバイク2台に乗ったが、1人当たり2千ウガンダシリング($1.3)も取られた。外国人専用料金があるように思われる。
 夕刻になるとルボニ コミュニティキャンプのキッチン周りにボコンジョの民族ダンス団(女性8人男性3人)が集まって準備を始め、レストランの脇ではロバーツさんが鶏を絞めて料理の真っ最中であった。ダンスが始まる前にはアロージャスさんも家族を連れて来た。約束したジョセファ一家とジョエルさんの姿はない。何処で聞きつけたのかNGO活動をしているニュージーランド女性やその他の飛び入り参加者の姿も見える。ボコンジョの民族ダンスはドラムダンスで洗練されたものとはいえないが我々がビールに酔って飛び入りしても踊れそうな楽しいものであった。ただ、我々が楽しみにしていたロバーツさんの鶏料理はダンサーやドラマーがポリエチ袋に詰め込んで土産にしてしまったそうで私の口に入ったのはほんの僅かな欠片でしかなかった。ボコンジョの宴会の習慣を垣間見た気がする。今夜はダイエットと思って侘しく寝ることにした。それにしてもジョセファ一家が現れなかったのはどうしてだろうか?コミュニケーションのギャップを痛感した。

2月18日:移動日:ニャカレンギジャ(1615m) – クイーン エリザベス国立公園
 朝食後、荷物を纏めてレストランのテラスでPAの車を待った。約束の時刻前にジョエルさんが登って来て、「昨夜はタクシーバイクが途中でガス欠したので参加できなかった。済まない」という。そこに生きた鶏を下げたジョセファさんが弟を連れて挨拶に来たがジョエルさんがいたせいかなにも言わずに帰って行った。MYさんは「彼はなぜ来たのだろうか」という。昨夜といい、二人の関係はなぜかよそよそしい。
 マネジャーの大荷物を持ってもらってルボニ コミュニティキャンプの入口に下り、PAの運転手アバスさんのサファリカーに乗りこんだ。昨日歩いたニャカレンギジャ、イバンダを過ぎてバナナ・コーヒー畑の中をカセセに向かう。ムブク川の橋を渡り、舗装した国道に出た。左手を見るとバス停に大きなザックを背負った日本人(?)がいた。ムブクから下ったクロダさんも同じようにここからニャカレンギジャに向かったのだろうか?カセセ中心街手前で右折してマルガレータ ホテルに向かい、フロントで預けた荷物を無事回収した。ホテルから見るルエンゾリは今朝も雲の中に隠れている。荷物を積み込む間、「このシーズンのビジターはどうか」と聞くとジョエルさんは「この後のブッキングがない」という。ホテルを下って再び国道に出た。カセセの中心街に入ってミネラルウォーター、缶ビールを購入し、バスセンター近くでジョエルさんと別れた。アッバスさんに聞くと、「PAはジョエルさんのRCTと親密」と答える。彼はRMSについては何もコメントしなかった。
 往路と同じ国道をクイーン エリザベス国立公園に向かう。赤道のモニュメントで下車して写真を撮る。右を振り返ると直ぐそこにコンゴ分岐あった。右折してカトゥエへ向かう砂利公道に入る。左右はもうクイーン エリザベス国立公園の中だとアッバスさんは言う。随分走って左折すると、クイーン エリザベス国立公園のメインゲートがあった。アッバスさんがなにやら手続きしてゲートを女性係官に開けてもらい、ゲイムトラックに入った。噴火口の脇を通りすぎて今夜の宿、ムヤウェア ロッジの入口に着いた。
 フロントでチェックインする間にゲストの寄せ書きを見ていたら昨年2月に日本人のルエンゾリ遠征隊全員登頂成功と書き込んであるのを見つけた。我々も成功した旨を書き込んでルエンゾリ登山は完全に終わったのだと気持ちの整理を着けた。HTさんは「命を掛ける登山はもういや」と言っていたが、TIには、ルエンゾリ登山はボグ、岩場、氷河などの障害やアップダウンが多くて、どこかTIの人生や目下の経済情勢とそっくりのようで実に感慨深かかった。
 帰国後、RMSのホームページを参考に、9泊10日分でRMS中央周回ルート・マルガレータ登頂の費用を計算してみた。直接RMSにブッキングしたら随分安くなったかもしれない。ちなみに7泊8日海外国籍非居住者1人当りのパック料金 $990(国立公園 入園料、ガイドの賃金と食料、ポーター2人の賃金と食料、救難費用、コミュニティへの税、山中宿泊費、木炭費が含まれる)に山中追加2日* $120 /日、追加ポーター2人* $110/人、食料 (パッケージ外)-$140、追加2泊*食料$20/泊、でレンタル$25(3人以内のグループにつきガスクッカー/燃料 $50-、ロープ $25-)をざっと合計すると一人当たり$1655にしかならない。オーストリア人が吃驚したはずだ!
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